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1855年(安政2年)



1855
(21歳)
         


12月4日 父(八平)が死去


その頃、日本は。
1855年の日本は、江戸時代末期にあたり、
開国後の混乱期でした。



1854年(安政元年)にアメリカ、イギリス、ロシアと、
翌年オランダと、
日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約が結ばれ、
日本は鎖国を解いて開国しました。
しかし日本に不利なものが多く、

国内では開国反対の声が高まりました。



1855年(安政元年)10月2日(新暦11月11日)、
江戸で安政江戸地震が発生しました。
マグニチュード7.9~8.2と推定される大地震で、

江戸に甚大な被害をもたらしました。
死者・行方不明者は1万人以上、

家屋倒壊は約12万棟に上ったと言われています。

福沢諭吉が蘭学塾「蘭学堂」を開き、
新しい学問や思想を広めるために活動しました。



開国によって、西洋の文化や技術が日本に流入し始めました。しかし、それらは従来の価値観や生活様式と衝突し、社会に大きな混乱をもたらしました。
また、開国反対の動きが高まる中、尊王攘夷運動が起こり、
幕府の権威が揺らぎ始めました。





その頃、世界は。

1855年は、クリミア戦争が続いた年です。 また、日本では、日露和親条約が締結され、 鎖国が解かれました。

クリミア戦争は、1853年にロシア帝国と オスマン帝国が戦争を開始したところから始まりました。 戦争は、1856年まで続き、ロシア帝国が敗北しました。 この戦争は、ヨーロッパの勢力図を大きく変えました。

日本では、1854年にペリー提督が黒船で来航し、 日米和親条約が締結されました。 この条約により、日本は鎖国を解き、 アメリカと通商関係を結びました。




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